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神の手を持つ西尾仁志 初インタビュー

(取材・文・写真:増田 満)


今では富士チャンピオンレースと呼ばれているが、その昔は富士フレッシュマンレースと呼ばれた。そもそもは富士グランチャンピオンレース(GC)の前座として開催されたマイナーツーリングレースが始まり。 TS1300が長らく続き、その後NA1600へ移行。またAE86やRX-7のみのクラスも存在した。 数多くの名ドライバーを輩出したことでも知られるフレッシュマンだが、当時のエントリーリストを見ると、ある特徴がある。 ドライバーの名前と年齢、マシン名などのほかに、メンテナンス責任者という欄があるのだ。そして面白いのが、その責任者の半数近くがスリーテック・西尾仁志と書かれている。速いクルマのほとんどに、西尾さんの手が入っていた。

ではスリーテック、そして西尾さんとはどんな人か。

フレッシュマンだけではなく、例えば70年代から80年代初頭のGCマシンも西尾さんがメンテナンスをしていた。 しかもメーカー問わず。レーシングカーだけではなく一般のチューニングカーも製作。それゆえ、一部の人から「神の手」などと称されている。

 

今回、お話を聞くことができたのは、旧車の買取や販売を手がけるウィナーグループの小宮伸介社長の口添えがあったから。 小宮さん自身、80年前後からフレッシュマンレースに出場してきたドライバーで、現在もクラシックカーレースの表彰台常連。腕前はもちろんだが、速さの秘訣は西尾さんと西尾さんの門下生がチューニングを担っているからだ。


固い握手は二人の絆の深さ。西尾さん(左)はもう引退してしまうが、小宮社長(右)のレース参戦はスリーテック出身のメカニックに支えられて続くだろう。



やはり70年代から80年代にかけて日本のレース界が熱かった当時、スリーテックには数多くのレース関係者が出入りしていた。それは神の手、西尾さんに惹かれて、または頼りにしてという場合が多い。 コジマエンジニアリングの小嶋松久さん、ムーンクラフトの由良拓也さんなどと言えば、お分りいただけよう。 「北海道の札幌生まれでしたが、クルマが好きで上京して生田モータースに就職しました。生田モータースは日仏貿易が経営する整備工場で、のちに日仏自動車です」


古いレース記事などを読むと日仏自動車という名前が頻出する。フランス車の販売や修理を手がける老舗ディーラーだが、モータースポーツにも自社メカニックにより進出。 だがシトロエンの輸入販売権が西武百貨店系列に移ると、日仏自動車はレースに特化したガレージになるべく富士スピードウェイの脇に移転。社名もスリーテックとなるのだった。


スリーテックの社名の由来はクルマ・飛行機・船のエンジンをどれもメンテナンスできたから。富士スピードウェイ周辺でヘリコプターを牽引する西尾さんの姿は、ある意味名物だった。


「富士24時間レースというのがありました。その時はフェアレディ2000、SR311で出場したのですが、レースの途中でドライバーの寺西孝利さんが『オーバーヒートする!』ってピットに戻って来たんです。ガスケットが吹き抜けていました。もう一人のドライバーである板谷亨さんが自分のだと言う大森のレースオプションヘッドを持っていたんですね。バルブも組んであるので、それをレーシングカーのエンジンにガスケットごとその場で交換して走らせたんです」

このレースで見事優勝を収めた。レース中にシリンダーヘッドを載せ換えるというのも無茶な話だが、それで優勝してしまうところに西尾さんの腕が現れている。そしてこの時、西尾さんは痛感した。 「ワークスのヘッドはずっと全開で走っても大丈夫なんですね。しかも、よく見ると色が市販のものと違うんですよ。おそらく材質からして違うのでしょう」

ワークスとプライベーターの違いを痛感。どうやればワークスよりいいエンジンになるか。 レギュレーションがあるから、手を入れていい場所は限られている。「ポートを削るなんて、毎日のようにやってましたね。鏡面になるまで磨くのですが、当時はいい道具がないものだから紙やすりで磨いていました。ポートも大きくすればいいわけではない。ある程度まで大きくなると、今度は流速が落ちてしまいパワーが出ないのです」。


ハコスカやフェアレディZに搭載されたS20型DOHCエンジン。西尾さんがチューンした写真では機械式インジェクションを備えている。



スリーテックの名前が大きくクローズアップされたのは、柳田春人選手との巡り合わせから。

柳田選手は女優の夏川かほるさんによるチームからプロデビュー。やはり西尾さんがメンテナンスした旧型のSR311で、なんと新型フェアレディZに勝ってしまう。すると車体からパーツまで、裏で日産から提供されるようになった。「ファクトリーに引き抜かれたのは歳森、星野、柳田でしたね。彼らは中野にアパートを借りて住んでましたね。その時は日産の契約社員だからSR311をマイカーにしてました」。

だが歳森、星野はれっきとしたワークスドライバーだが、柳田は準ワークス扱い。日産大森ファクトリー(今のニスモ)がチューンしたマシンではなく、あくまでマシンはスリーテックが作り上げる。当然、彼ら2人には敵わないのだが、転機が訪れる。フェアレディZに240Zが追加され、レーシングマシンも240Zベースになった。以前のDOHCエンジンを積むZ432より相性が良く、西尾さんによるチューニングも一層冴えた。「ウチは日産の協力工場でしたから、レース監督の難波さんや大森の工場長だった加賀谷さんがよく遊びに来られました」。その加賀谷さんからチューニングマニュアルが送られて、電話でもノウハウが伝えられた。すると日産のレースオプションパーツを使ってチューニングしただけで、ファクトリーマシンと同じタイムが出た。


柳田春人選手(中央)を支えた西尾さん(左)は、柳田選手が勝った副賞のブラジル旅行にも同行。二人の関係は70年代いっぱい続いた。

 

柳田選手の速さはS20エンジンのZ432ではなく、L24エンジン搭載の240Zで開花した。西尾さんによればダンロップタイヤを使い続けたこともポイントだったという。


その後の柳田選手の活躍はご存知の通り。「Zの柳田」「雨の柳田」という異名で呼ばれ、準ワークスながらトップドライバーの一人として認知された。それもこれもスリーテック・西尾チューンによるマシンだったからではあるのだ。 「L型はさんざん触りましたね。よく8000回転まで回ったとか言うでしょ。あれ、無駄なことなんです。7200回転を常時使うのがいいんです。L28になってクランクが変わります。これを使うと8000回転が可能になるということでしたが、あれは追浜とか大森とか、すぐ直せるところじゃないとやってはいけない」

日産には何ラップしたらどの部品を変えろとの指示がある。それをやっていたら予算がいくらあっても追いつかない。それでL型レースから手を引いた。その代わり、LZエンジンは1600の時代から付き合ってきた。当時はフォーミュラ・パシフィック(FP)というマシンに載っていた。「真田睦明とか柳田選手も乗りましたね。でも柳田選手がワークス入りして、直接ドライバーのクルマをメンテナンスすることはなくなりました。でもエンジン単体でのチューニングは変わらずに続けました」。


柳田選手のZには絶えず西尾さんの姿が見られた。運転席に座る柳田選手に語りかける西尾さんは、このとき何を伝えたのだろうか。



日産からエンジンが送られてきて、西尾さんがチューニングしてからスリーテックのベンチでエンジンを回す。1だが、LZが2リッターになりターボになると、スリーテックのベンチでは対応できなくなる。それはパワーがありすぎたからだ。 LZターボというと、マフラーから火を吹くシルエットフォーミュラ、トミカ・スカイラインの姿を思い浮かべる人も多いだろう。あのエンジンはなぜ唐突に500馬力にまでパワーアップしたのか。その謎は西尾さんの手が入ったからだ。

グループ5規定が日本に導入されたのは79年。富士GCレースの前座としてスーパーシルエットシリーズがスタート。初開催時に出走したマシンは、その多くが以前のTSマシン。ロータリーエンジンのサバンナが圧倒的に強く、フェアレディZも食い込むことはできたが、とても勝てはしない。そこで日産はLZ20Bターボを積んだバイオレットを走らせることにする。だが、海外ラリーに参戦していたバイオレットに搭載されていたLZターボは220馬力前後で、ライバルのサバンナに勝つには300馬力以上が必要。そこで西尾さんのチューニングに頼ってきたのだ。

ところが西尾さんはその後、日産との関係が悪化したせいもあるのだろう、あまりLZについて語ってくれない。そこでウィナーグループ代表の小宮社長に当時を振り返ってもらった。というのも小宮社長は70年代後半からフレッシュマンレースに参戦しており、押しかけ弟子のような形でスリーテックに寝泊まりしていた。「まだ従業員の泊まる場所がなくてね。工場の脇を指して『そこで寝なよ』と言われるんだけど『西尾さん星が見えますよ』って(笑)」。なんとか寝入るが安心できない。夜中に突然工場の灯りが付いて工作機械が回り出す。なんと西尾さんが夢でみた部品の設計を忘れないうちに作ろうとしているのだ。


スリーテック内に設置されていたエンジンベンチ室では、何機のL型エンジンが試されたのか計り知れない。西尾さんがキャブ調整をしてテストを続けている。



天才肌の西尾さんだから、LZをチューニングするのに当たり前のことはしない。なんと可変バルブタイミング機構を作ってしまったのだ。西尾さんと懇意にしていたカムシャフト職人に熊谷機工という存在がある。ある時、西尾さんは日産にいくら言っても作ってくれないクランクシャフトの新機構を試すため、熊谷機工に1週間ほど泊まり込んで、思うようなクランクをワンオフしてしまった経歴がある。おそらく可変バルブタイミング機構も、このようにして作られたのだろう。

79年に始まったスーパーシルエットシリーズは初めの数戦こそサバンナ勢が勝てたが、柳田選手がLZバイオレットに慣れると第3戦から連戦連勝。81年にはガゼールにマシンが代わり、星野選手もシルビアで参戦。82年には長谷見選手がスカイラインで参戦し星野選手のシルビアと柳田選手のブルーバードと、3台の日産ターボ軍団が完成した。

その後、西尾さんはプライベーターのチューニングカーにも関わる。サカモトオートというショップのドラッグマシン用エンジンだ。スリーテックではL28にLD28クランクを使って3・1リッター化したブロックにL Yヘッドを載せた。さらにNOS製N2Oインジェクションをセット。これにより当時L型最強の400馬力オーバーを実現した。

だが、マシンを製作中のスリーテックに遊びに来た由良拓也さんは「このマシン、飛ぶよ」と言ったそうだ。新幹線のようなスタイルにモディファイされたエアロパーツに揚力が発生すると考えたのだろう。事実、82年に富士で開催されたスキャットDRAGレースに出場したが、いきなりスタートでウィリー(FRなのに!)。一度は着地するが、フルスロットルで宙に浮いてクラッシュしてしまう。

80年代のドラッグレースや最高速アタックの場でも、必ずスリーテックもしくは西尾さんの名前が聞かれた。しかし、そのスリーテックも今年の10月で幕を下ろす。名門チューナーは時代とともに引退してしまうこととなった。


胸につけているのは富士スピードウェイでの車検検査官の印。その腕はレース関係者に広く信頼されていたための職責だ。